コラム

■働く場所がなくなる!

私が子供のころには、勉強が嫌いで全くやらないような子が「そんなに勉強が嫌なら、高校なんか行かんと工場に出て働け」なんて親から言われているのをよく耳にしましたし、現にそうした連中が私のまわりや同級生にも何人かいました。

しかしですね、今では工場もほとんど人件費の安い海外に行ってしまいましたし、残っているのは熟練工のみなさんによって支えられているような金型などの特殊技術を売る町工場、伝統工芸などの工房ぐらいじゃないですかね。要するに、単純労働作業をもって働けるような町工場はほとんどなくなってしまったということです。

過日、三菱UFJ銀行がフィンテックによって30%の業務を人工知能をもって置き換えることを発表しました。ブロックチェーン技術によって低コスト化を進めるということです。続いて、三井住友銀行もソフトウエアの開発によって1,500人を削減する方向のようです。加えて、みずほ銀行はグループ全体で19,000人の削減だそうです。証券会社のトレード業務はすでにほとんどがAI(人工知能)による高速取引に置き換わっており、アメリカの大手証券会社ではかつて数千人いたトレーダーがすでに10名程度になっているなどの報道が毎日のようにニュースで伝わってきます。他にもAIによって、言語の完全翻訳が近々に可能になるなんて話もありますよね。翻訳業や通訳といった業種はこれからどうなってしまうのでしょうか。

一方で、わが国における花形の産業も時代とともに移り変わっていきます。かつては紡績、鉄鋼、造船、次には、金融、保険、そして、IT情報通信と目まぐるしく変遷してきました。そして、さまざまな変化を遂げて、再びかつての紡績会社なんかが世界トップレベルの炭素繊維技術をひっさげて主役に返り咲く、なんてことも起ころうとしています。まるで振り子が左右に大きく振れたり、時計の針のように周期的な循環をしているようにも感じられます。

今現在が働き手不足で、「仕事なんてその気になったらいくらでもあるわ!」なんてボーとしていたら、あっという間に時代が変わっちゃいますからね。

日本の企業は様々なものに対しての耐性をつけるのはほんとうに上手です。かつてのオイルショック時以降の省エネ対策、輸出産業の脱円安依存への対応と同じように、おそらく働き手不足も様々な技術革新によって克服してしまうことでしょうね。労働集約型の産業構造の変革は社会全体の効率向上をもたらすもので歓迎するべきことだとは思いますが、確実に人の働く場所は減っていくことになります。

さらに、日本国内で供給される労働力が企業が求める水準に達していなければ、海外から優秀で勤勉な労働力を入れざるをえなくなるでしょう。欧米諸国の先端企業の例を見るまでもなく、そう遠くない時期にそうなってしまいますよね。

産業用ロボットや人工知能、そして優秀な海外からの労働力の流入の果てに、10年先、20年先には私たち日本人の行う仕事としていったいどれくらいの職種が残っているんでしょうか。今、私の目の前にいる子供たちはどんな職業について、どういった水準の生活しているんでしょうか。

競争を極力排除し、ゆとりのある教育を受けて育った子供たちに、豊かで明るい未来が無条件にやってくるなどとは、私にはどうしても信じる気にはなれないんですよね。

Takahide Kita

■「教育困難大学」って、何だ?

たぶん、そうなっているんだろうなあ、とは思ってはいましたが、「やっぱりかぁ」なんて・・・残念というか、悲しい気持ちになりましたね。ふと目にとまった東洋経済の記事の内容でした。

以前からも「まだ社会に出たくない」といった理由から大学に進学する「モラトリアム」的な進学はありましたが、大学における様々な授業や単位認定の仕組みを理解することさえできずに、教員や職員に対してキレて暴力をふるったり、講義の妨害をするなんてのはまず耳にしたことはありませんでしたよ。もちろんこうした学生個人の資質が一番の問題なわけですが、こんなのを入学させた大学の側にも大きな問題があるように思いますね。

とりあえずは、文部科学省の認可を受けた学校法人が運営する「大学」なんでしょうから、本音(現状)はさておき、何とか建前の部分で踏みとどまってくれているものと思っていたんですけどね。というか、「踏みとどまって欲しいと願っていた」と言ったほうが正確ですかね。昨今の推薦入試やらAO入試やら、学力度外視でなりふり構わずに学生集めに走ったことの大きなツケがきた感じですね。

そもそも、大学の枕詞になんで「教育困難」なんて文字が付くんだ???全く理解できないし、意味がわからないですよね。もはや、このレベルでは最高学府たる大学としての矜持も一切喪失してしまって、単なる教育産業として学位を売る「大学屋」になってしまっているということなんでしょう。ほぼ学生は「客」としての扱いでしょうから、学生のほうが教員を下に見るのはある意味自然な流れなのかもしれません。本来は処分の対象となるような学生、いや本来は大学生にしてはならないようなヒトを入学させることによって商売として成り立っているわけですから。

私は、海外の大学事情には詳しくはないのでわからないのですが、こんな大学って海外にはあるんでしょうか。たぶんないんでしょうね。この記事を読んで、ほんとうに恥ずかしい気持ちになったのは私だけでしょうか。外国のみなさんには隠しておきたい、知られたくないと思ったのは私だけでしょうか。

そのうち、今度はどっかのSNSあたりに「大学落ちた。日本死ね!」なんて書き込みが出てきて誰かがまた過剰に反応するようなことにでもなるんでしょうか。もうこれ以上は勘弁して欲しいですね。こんな茶番は見たくもないし、聞きたくもないです。みなさんもうんざりしませんか。

やっぱり、存在してはいけない大学は、バッサリ潰してしまう必要があると思いますよ。数年前に週刊誌で報道された都内の大学、「理系の学部生の多くが分数計算ひとつまともにできない。こんな大学に私学助成として税金を投入してもいいのか!」といった批判に、大学側は「このヒトたちにも学ぶ機会を与えなければならない」なんて反論なさってましたけどね。まあ、そう言うしかないんでしょうが、「こんなのダメだ、おかしい」ということは、小中学生でも容易にわかる理屈ですよね。

無条件に与えられすぎた教育の行き着く先には、多くの「勘違いした個人」とそれによって構成された「奇妙な集団」があるだけだと思います。自分の居場所はその能力と頑張りでつかみ取るものでしょうよ。少なくとも私は子供たちにそう語り続けています。

ああ、そうそう、私たちのもっと身近な場所でも「教育困難学習塾」なんてのが登場するかもしれませんよね。というか子供たちや保護者のみなさんから聞いた話によれば、すでに登場しているみたいですよ。

Takahide Kita