コラム

■晴れの日に傘を貸して、雨の日に傘を取り上げる

これはバブルが吹っ飛んだ頃に銀行をはじめとした金融機関に対して、皮肉を込めてよく言われていた言葉ですね。調子がいいときには銀行の方から頼み込んででもお金を借りてもらいに来たのに、調子が悪く少し左前になった途端に強く返済を迫られたり、貸しはがしにあったなんて会社がそこかしこに溢れていましたね。

私たち学習塾の業界でも、似たような話はあります。

例年、他塾の受験生で2学期以降に私を訪ねて相談にこられる生徒、保護者の方が必ず2~3組はあります。その内容は一言で言えば、「助けてください」ということですね。

3年間通って、入試が遠くにある時期には「大丈夫ですよ」、「頑張ってますよ」なんて聞こえのいいことばかり言っていたのに、志望校の合格を獲りにいこうとするこの時期になって「無理です!志望校は2ランク下げてここにしなければ責任はもてません」とか、ひどい場合は「おたくの○○君は基礎基本から出来ていないんですよね」だって・・・。この子、3年間ちゃんと授業料払って通ってたんですよ。

要は、これって高い授業料をとって「勉強ごっこ」をさせていただけなんですよね。前にもこのコラムに書きましたが、上位難関といわれる学校で合格を勝ち取ろうとした場合は、内申基準のみの推薦入試でもぐり込むケースを除けば、そういうレベルの教科指導を受けていることが不可欠なんです。これなくして受験させるのは、木の棒一本でアメリカ海兵隊に戦いを挑むようなものです。

だから、出来るだけ早い時期に大まかな形でもいいので、志望校や進路のイメージを作っておいて、そのための準備をする。たったそれだけのことなんですよね。もちろん、入学試験は相手があることですから、その準備を怠りなくやったからといって必ず合格を手にできるとは限りませんが、問題の出方一つで「勝ち負け」というところまでは持っていけるとは思います。

であるのに、そういった指導もせずに長い期間子供たちをあずかり、授業料を受け取り、しかも一番肝心なところではリスクをとらない。こちらのほうが経営としては効率的なんでしょうが、まさに晴れの日に傘を貸して、雨の日に傘を取り上げるようなものでしょう。これではその学習塾の存在意義を問われますよね。

私は、学習塾や予備校なんてものは、本来なくてもいいものだと思っています。というより、正規の教育機関が子供たちの学力の下支えと伸長を機能的に果たすことが出来るのならば、ないほうがいいとすら言ってもいい。だからこそ、私たちは少しでも有意義な存在でなくてはならないと強く思います。さらに、そこに通う生徒と保護者にとって「他を以って代えることの出来ない場所」にならなければ、そこに存在する価値はないでしょうね。

Takahide Kita

■実は私、数学が一番苦手でした・・・

私、進学塾で数学を教えてもう30年近くになりますが、実は最初に教えたのは英語だったんですよね。一番得意な教科ということで、英語で採用試験を受けたんですよ。結果、英語で塾講師のデビューということになりました。

しかーし、英語の授業の評判がとっても悪く、1ヶ月余りで英語講師はNGを出されましてね、そこから数学を教え始めたというわけなんです。

英語は得意だったということもあったからでしょうか、生徒がどこでつまずいて解らなくなくなっているのかが分らなかったんですね。それに加えて、「英語なんて人に教わるような教科か!駿台の英文700選と辞書があれば自分で出来るやろ!」なんて思いもありましたね。

数学は自分自身が苦手な教科でしたので、ほんとうに様々な工夫をしてきたと思います。高校2年生のときに、何とか数学を克服しようと夏休みの期間のほとんど全てを数学に費やしたこともありました。当時は自宅にクーラーがなかったもんですから、毎朝、姫路の手柄山にある図書館に朝から並んで、扇風機前の席をとって一日中「チャート式数学」をやっていましたね。結果、少しは改善したことはしました。それでも志望する大学の冠模試(○○大実戦、△△大オープンなんていう例の模試ですね)では、数学大問4題に対して、良くて1完半、ひどい場合は0完半で、「書き賃拾い」といった情けない状態でしたが、何とか他の教科と合わせると見苦しくない程度の点数になりましたし、共通一次(現在のセンター試験)レベルでは普通に満点がとれるようになっていました。

苦手なものを何とかしようとするときには、ある意味狂ったようにそれだけに打ち込むことが不可欠だと思います。「英語が苦手だから、週に2回予備校に行って何とかしよう」なんてのはお話にならないでしょうね。所詮、「何とかしてもらおう」ということでしかありません。

Takahide Kita