コラム

■「自助努力」という言葉はNGですか?

私の行動指針のど真ん中に「誠実」というのがあります。その一方で、「でたらめにはでたらめ返し」というのも同じくらいの重さで存在しています。まあ、でたらめなモノに誠実に対応していても腹が立って、疲れるだけですからね。

今回の内閣総理大臣の交代の際に、新総理が最初の会見で「自助・共助・公助」という言葉を使われたようで、行政のトップたるものが、国民に対して「自助」とは何事か!といった反発の声が上がっているようです。しかし、誰かを支援したりする場合、その対象となる人が真剣に自助努力をしていることが大前提ですよね。これなくして、支援だの共助だのという話しにはならないでしょう。どんなに立派な理屈や綺麗な看板をつけても、私には全く響いてきませんね。子どもでもわかる話しだと思います。

確かに、「自助努力」という言葉は、時として力を持った人たちによって都合よく使われることはあります。また、「自助努力」を求められた人からすれば、これは結構キツかったりもします。ただ、本来、支援や援助といったものよりも先ず「自助努力」があるわけで、それがもはや限界といった場合に「共助」なり「公助」といったところに移行するのではないでしょうか。食べる前から、もう「おかわり」をおねだりするようになってしまっては、助ける方も唖然としてしまいます。

そもそも、個人の「自助」によって積み上げられた余裕があってこその「共助」や「公助」であり、これらの源はやはり「自助」というところに行きつくでしょう。

と、ここまで書いて、お茶でも飲みながらテレビのニュース番組をみていると、新しい総理大臣が首相官邸で記者の質問に答えている映像が目に入ってきました。「えっ!」と一瞬言葉を失いましたね。新総理の顔つきが・・・官房長官在任中に会見をされていたイメージとは全く違うじゃないですか。目を大きく見開いて活気にあふれた表情で、しかもその目が笑っていない。見た瞬間、ほんとうに「ゾクッ」としましたよ。

そういえば、新総理は昨今の代議士さんには珍しく、たたき上げの苦労人ということでした。秋田から上京し、アルバイトで学費を稼ぎながら大学に通われたとか。政治を志してからは世襲議員さんなんかとは違い、市議会議員からスタートし、ついにわが国の宰相の地位まで上りつめられたと聞いています。ということは、「自助」の生きた見本のような人ということになりますよね。

新内閣の支持率はご祝儀的なものもあってか、60%を越える高いものになっているようですが、そこには「たたき上げの苦労人」なら弱いものの気持ちがわかってくれるのでは、といった期待も含まれているものと思います。でも、おそらくはそんな期待はすぐに吹っ飛ぶんじゃないでしょうか。

たたき上げで成功したり出世した人の多くは、頑張れない人や努力しない人を決して認めません。苦労人は苦労している人の気持ちはわかりますが、そこから逃げたり、頑張ることをしない人の気持ちや行動には納得できないでしょうからね。「なぜ、お前は辛抱できないんだ」、「その程度は頑張りのうちに入らんよ」といったように相手に迫ってきます。はっきり言わないまでも、心の中ではきっとそう思っているでしょうね。これからは、「頑張れる人は頑張れ、そしてそうでない人は・・・」といった新自由主義の方向に行くのかな、なんて漠然と感じます。

ところで、うちにはあの太平洋戦争の矢玉の下をかいくぐってきた80歳を越える母親がいるんですけどね。今も田舎の姫路に健在です。そのオカンから僕ら兄弟は耳にタコができるほど聞かされましたよ。「勉強でも、仕事でも頑張らなあかんよ。怠けてばっかりおったら、他人様に迷惑かけたり、いつかは国の世話にならなあかんようになってしまうで!」、この前帰省したときなんかは、こんなことも言ってましたね、「国は大丈夫かいな、みんなにようさんお金配ってしもうて、国もお金ないんちゃうんか?」 私、笑いながら答えましたよ、「まあ大丈夫やろ。国かてアホやないさかい、この先税金上げて取り戻す算段ぐらいはしてはるて」

まあとりあえず、私の方としては久々に登場した、気合いの入った総理大臣様から「自助だ!頑張ってくれ!」と頼まれてるわけですから、頑張っていいとこ見せないわけにはいきませんよね。

Takahide Kita

■「まちがったこと」を全力でやる悲劇

これって意外と多いんですよね。以前にもお話しさせていただいたドイツの名将ゼークトの言を借りれば、組織の中では「もはや排除するしかない」対象ということになります。

自分では良かれと思い、勝利なり成功なりを目指して頑張っているつもりが、周りから見れば地獄を目指して「全力疾走中!」という状況なんですよ。こいつの一番やっかいなところは、まわりが間違いや危険性を指摘しても耳を貸さない、というより「より頑なに」なってしまう。典型的な認知的不協和の状態で固まってしまうんですよね。

集団で全力疾走している場合はさらに悲劇的な状況に陥ってしまう。こちらはもはや集団催眠といったところでしょうか。国家レベルでやっているとこもあったりしますから、そりゃ、えげつないことになりますでしょう。

私の場合ももちろんそうなる危険性はあります。そうならないためには、自分の周りに意見をしてくれる人をしっかりつかまえておいて、私の意見や行動に一定のアンチテーゼを示して考えさせてくれる存在が必要です(もちろん、そこには忖度などあってはいけません)。あえて、時間と手間をかけてでもそういった意見なり考えを聞きに行くぐらいでちょうどいいんじゃないかな。そういった行動は、一旦自分を否定し、自分のやってきたことの中でも特に成功体験を否定する、といったところから始まりますから・・・私のような凡人にはかなり難しいことなんですけどね。(苦笑)

まあ、この手の「全力疾走」も自分の個人的な趣味なんかでやってくれている分にはいいんです。所詮まわりからすれば、遠い宇宙の果ての出来事にすぎませんから。しかしながら、これが仕事なんかのフィールドに移ってくると、そりゃもう大変ですよね。金融ビジネスなどであれば、ほどなく結果が出てきますから、組織としての修正力がはたらきますが、教育の現場など閉じた空間で「人」を対象にしているような場合はもう目もあてられません。結果が出るのは数年、数十年先、しかもその人の人生に決定的なダメージとなって現れますから、取り返しがつきません。「地獄目指して全力疾走」の反復、連鎖、バトンリレーといったところでしょうか。

私たちは、国の内外を問わず、そういった景色を幾度も目にしてきました。「○○○世代」とかいうアレもそうです。その当時の社会情勢にも一因はあるのでしょうが、やはり教育による影響が大きいと考えますね。しかも、そこに導いていった人は決して責任をとったりはしませんよ。我が国における太平洋戦争末期、そして戦後のその反動期、近くでは平成のゆとり教育期など、それは歴史が証明している事実です。

教育における価値観は振り子のように左右に振れるものです。価値観の違いはお互いに相手を尊重できていれば問題ありませんが、最近多くなってきた「なーんちゃってリベラル」的な価値観の押し付けや思想的感情的なものに起因するプロパガンダの類はご遠慮いただきたいものです。やっている本人たちはいたって真剣にやっているつもりなんでしょうが、それがゆえに先々でとりかえしのつかない悲劇を生みだしかねません。

Takahide Kita