■公正と公平
最近、よく間違って使われていますよね。というか、混同されています。
「うちの上司は部下を公平に評価してくれない」とか言ってるのを耳にすることがありますが、これって「公正」じゃないの。能力が高い人、頑張ってる人はその成果に応じて評価をする。これって「公正」ですよね。頑張ってる人もそうでない人も、人の3倍の成果を出す人も人の半分も成果を出せない人も同じように「公平に」報いる上司はいないと思います。それぞれの人を公正に評価するんですよね。自由主義の本場アメリカなんかでも大統領に対して「公正であれ」とは言いますが、「公平であれ」とは言いませんからね。
ところで、最近では、「公平であること」が結構声高に主張されることが多くなったような気がしませんか。公正でない社会にはなってほしくありませんが・・・必ずしも、すべてが公平である必要はないと思うんですけど。
努力や頑張りが報われるということは、裏を返せば、怠惰は置いていかれるか逆の意味で報いを受けるということなんでしょう。でなければ、誰も真面目にやりませんからね。あたり前ですが、一人ひとりの努力や能力、そしてそこから出てくる成果を公正に評価していけば、結果として公平ではなくなります。
近時、話題となっている教育無償化についても、ここらのところを考慮して進めていかなければ将来、厄介なことになるような気がしてなりません。
優秀な人材が埋もれてしまわないことや厳しい状況下でも頑張っている人たちを応援するのはとっても素晴らしいことだと思いますし、社会的にも有意義で優先順位の高い施策であることは間違いないとは考えます。
その一方で、こういった支援を受けるためには一定の基準や審査が不可欠だと思うんですよね。なにも選挙権などのように平等、公平に与えられるべき性格のものではないでしょう。最近流行の「選別」なんて言葉が連想され、対象となる人を審査するのが不適当というのなら、学校のほうを審査すればいいわけですしね。高等学校なり大学が無償化対象校の申請を行い、これを審査し、要件を満たしているものに対してのみ無償化対象校の指定をする。
加えて、「どうせタダなんやからとりあえず進学しておこう」とか、「行かなきゃ損だ」、なんて風潮が世の中の大勢になってしまうのが嫌ですね。苦労をともなわずに手に入れたものは大事にされることはまずないですからね。どこぞの通信制高校であったような架空在籍での補助金不正受給問題に類似したような事例が発生しなければいいなあ、なんて考えちゃったりもします。
また、結果平等は事なかれで受け身の姿勢を助長し、社会に停滞をもたらすことは歴史が証明しているようにも思います。さらに、およそこの種の公平を求める要請はどんどんエスカレートしていく傾向にありますから、次は年金の問題あたりにいくんでしょうかね。年金をきちんと払った人もそうでない人も結果として支給額を同じにしろ、なんてね。正直者が馬鹿をみる世の中にだけはなってほしくないものです。
それでも、私は子供たちに向かって「努力は、この頑張りはきっと報われる」なんて偉そうに伝えていきますよ。「みんなの父さん母さんが、どういう思いで君たちに勉強させているか」も語り続けますよ。この子たちにだけは大事なものを失ってほしくはないですからね。
Takahide Kita